ED20(ED201・ED202・ED203)
栗原電鉄の主体として活躍した、あだ名が「カニ股」と呼ばれていた赤い凸形機関車がED20です。この機関車はかつての軽便鉄道時代から現在の栗原電鉄まで続けて使用されたので、くりはら田園鉄道では歴史的価値があります。
 新制されたのは昭和25年で、栗原鉄道電化(直流750v)に伴い、中日本重工三原製作所(現三菱重工)で18t機の機関車として3両製造されました。形式は機関車の重量が18tであるため、ED18として付けられました。この栗原電鉄の形式の付け方が普通の鉄道会社と違って、電車の形式が制御車をC(コントロール)、電動車がM(モーター)で、全長を形式とし、機関車は機関車全重量を形式として付けられていました。
 昭和30年9月27日に国鉄(現JR)と貨物中継が必要になったことで、軌道幅を1067mmへ改軌された伴い、ED18の車枠交換改造を行いました。

 車枠交換した後、機関車全重量が20tとなったことにより、今のED20と改番されました。なお車枠交換改造でED201〜ED202だけ昭和30年に改造を終えましたが、ED203だけ少し遅れて昭和32年に終えました。
 車体はスリムで小さく、台車が非常に幅広に見えます。事実、車体幅よりも台車枠幅の方がわずかながら広く、また改軌後は架線までの距離が広がったことから、走行時にはパンタグラフを精一杯上げます。

 主電動機は40kw×4と小さく(元軽便鉄道のため)直接制御で重連が不可能なため晩年は主役の座をED351形(2代目)に譲ってしまいました。
 前記、カニ股機関車と呼ばれていた理由は、運転台が前方に向いた位置に置いてあるではなく、横方に向いた位置に設置されており、運転するときには、カニのように、体は横方で、顔だけ進行する方向へ向いて運転する方法をとっていたからです。
 しかし貨物輸送減少化で、仕業が少なくなり、余裕のできた機関車では・・・ED202を初めに、昭和58年3月31日付けで廃車となりました。
 不況のあおりを受けて、細倉鉱山は閉山となってしまいました。そのため栗原電鉄の脈であった貨物輸送が全廃止され、失業同然となったED203とED351は、昭和62年4月1日付で廃車となるところ、幸いにもEED351は、鉄道マニアが引き取ることになりました。だがED203も解体されず、若柳駅構内で保管されています。
 前記通り先に廃車されたED202は、細倉マインパーク前駅開業に伴い駅隣接にワム71共に保存され今に至っています。貨物輸送廃止後でも残ったED201栗原電鉄内で臨時貨物輸送や、輸送に必要になったときに動いていました。例にすると今は亡きM182,M183と、KD95による甲種回送の運転もありました。
 ED201の晩年で輝いたのは、平成7年4月1日付でくりはら田園鉄道を迎えるための準備として、栗原電鉄沿線に砂利ばらまき工事や、“さよならED201”のヘッドマークを掲げて運転されていたことでした。
 最後の機関車であったED201は、平成7年3月31日付で栗原鉄道から栗原電鉄までの長い歩みを渡っていた道から降りて、長い眠りにつきました。現在は、石越町にあるチャチャワールド石越構内にC152、M152と共に休憩室として第2の人生を送っています。

 こうしてみるとED20機関車全機は幸いに解体されず、保存や保管されているので、くりはら田園鉄道歴史価値として後世にも残れればありがたいと思えます。
 余談ですが、いま気づいたのですが、ED201の屋根部分の塗装が、昭和と晩年と違った色になっていることです。貨物輸送廃止までは明るいグレー色だったが。廃車になるまでには紺色に変わっています。その違いは、ED201とED203の屋根部分の違いを見比べるとわかります。著者がインターネットで初めて知った晩年のED20の色は真っ赤でしたが、ブルー色を装った塗装があり、それが旧塗装時代であり、晩年の色とはまったく正反対な印象でした。       
 ナローゲージ時代のED18形(後にED20形になる)  
ED201
チャチャワールド石越
  ED202
細倉マインパーク前駅
 
ED203
若柳駅構内(許可を得て撮影)

 ED35形(ED351:初代目・2代目) 
ED351は昭和30年に東洋電機製で、裾にRをもつ丸々とした機関車で、主電動機や台車が、かつて電気式気動車であった国鉄キハ36450形から流用して、組み合わせて登場しました。
 昭和30年東武鉄道日光軌道線用機関車ED611として入線し、日光軌道線内での貨物輸送(清滝?東武日光駅、国鉄日光駅間)などで活躍していましたが、昭和43年に日光軌道線廃線伴いで同時に廃車となりますが、栗原電鉄が引き取ることに決まり、西武鉄道所沢工場で整備や改造を受けてから、栗原電鉄へ移りました。
 本当は、元東武ED611がED351へ名どったのは2代目であり、初代目は西武鉄道から移籍車:35tの東芝車両製、凸型機関車で、廃車が昭和44年であった。
 ED351はED20と比べてパワーが大きいためか、栗原電鉄沿線内の貨物輸送の主力として活躍していました。しかし細倉鉱山閉山にともない、貨物輸送が廃止され、失業となったED351はED203と共に昭和62年4月1日に廃車となってしまいました。
幸いにも鉄道マニアが引き取ることになりましたが、長年石越駅構内(石越中継ヤード跡)に留置されたままになっていましたが、平成10年頃に引取先へ移ることになりました。
       
 
初代のED351形。
西武からやってきた凸形35t機関車と書いてあるが実は西武所沢工場製品である。

   
 現役時代の2代目ED351.
 
1995年1月頃のED351
 
かつて東武鉄道日光軌道線で活躍した時代の頃の東武ED611号機。

M15形(M151・M152・M153)
栗原鉄道が貨物輸送を国鉄と中継するために改軌された際に、狭軌用の電車が必要になったため昭和30年、ナニワ工機(現アルナ工機)で軽量加工造を採用された最新設計の車輌。ノーシル・ノーヘッダーのボディ、オイルダンバ使用の台車(FS21形電動車用台車)、蛍光灯照明など、当時の地方鉄道電車としては最新のデラックス車であり、蛍光灯には格子状のカバーが掛けられ、手の込み様がうかがえます。
 3両製造して入線しました。  なお栗原電鉄での形式が車体全長を形式として付ける方式であるため、このM15とは全長が15mとなっているので付けられました。
 付記に印されているMとCは、Mが電動車を表すアルファベット、Cは制御車と呼びます。  
 塗装は製造当時は深緑と肌色でした。
 その数年後、ツートンから明るい塗装へ変更して、今の塗装に近い朱色と山吹色、屋根にはグレー色の塗り分けになりましたが、栗原電鉄転換間近辺りには、いつのまにか屋根部分が紺色に、山吹色が肌色に朱色部分が濃い色に改められましたが、塗り分けのデザインは変わりませんでした。
 M15形は栗原電鉄でくりはら田園鉄道転換までに、長く活躍していました。こうして平成7年4月1日付くりはら田園鉄道へ転換したと同時に、M151、M153は廃車されましたが、M152はED201、C152ともにチャチャワールド石越へ移り休憩室として第2の人生を送っています。
 残ったM151,M153は解体されず、長年若柳駅構内に留置されていますが、形状も崩さず保管は良好であるため鉄道ファンたちが訪れるのも絶えないです。
 なお平成9年11月頃、くりはら田園鉄道よりイベント会の一つとして、旧栗原電鉄車両達を展示して、パンタグラフを久しぶり上げて現役時代の姿を蘇らせて、また車内を解放して、その撮影会参加達を喜ばせました。ところで平成12年7月29日付では廃車達はまだ保っていましたが、平成21年7月15日付、M152、M153形をのぞく全て解体されました。   
     
      
M15,C15の塗装返還です。画像はページの都合で縮小してあります。画像をクリックすれば大きくみられます。

C15形(C151・C152)
C15はM15形電車の制御車です。製造したのは昭和31年、アルナ工機で京阪81・86形の木造車体と西武鉄道の台車TR41を組み合わせたもので、2両製造しました。
 しかしC15形ではなく、C14形として入線しました。なおC14形時代は、運転台の顔の形状は、M15形と類似した形ではありませんでした。
 その形では、3枚窓で車体がM15よりちょっと高かったので、M15と連結すると車体の高さのバランスがあわなく、C14形の方が高かったように見えました。
 C14形は前記通り木造車を流用したため、車体が古くなったので、車体更新を行うことになりました。車体が鋼体化になったのはC141が最初で、昭和35年10月に西武所沢工場で行われました。
 鋼体化になったC14形は、M15型と同じ顔形になって、長さも15mに変わったので形式もC14形からC15形へ変更されました。C142も追って翌年の昭和36年に鋼体化した後、C152へ改番されました。
 C15形の運転台が石越寄りのみしか設けられていないため片運転台仕様になっており、細倉寄りは、切妻になっており、テールライトのみ設けられている割に、運転台はなく、連結相手のM15形は非貫通のため、連結扉も設けられず、非貫通になっている。
 塗装の塗り分けは、C151とC152と異なっていたことに気づきました。経緯を見れば、C151はM15形と同様の塗り分けでしたが、C152だけなぜか異なった塗り分けでした。  調べて見ると、旧塗装から新塗装へ塗り変わった時にM15形など従来の塗装スタイルは、ライト周り部分に丸目の入った、ライトに向かって合流するような形になるはずが、C152は屋根部分に沿ってまっすぐな塗り分け方でした。それにテールライト周り部分の塗り分けもM182,M183形と同様の、ヘッドマークに沿った凹形の塗り分けでした。しかしM15形電車全車が屋根部分の色が紺色に変わったとき、いつのまにかC152屋根部分の塗り分け方が従来型へ戻っていました。しかし、テールライト周り部分は結局、変更しないまま廃車になるまで続いたので、C152は栗原電鉄中では異端児と見えました。
 その塗り分け方は、下の絵のように参考してくれば、ありがたいと思います(C152の変則な塗り分けについては"保育社発行カラーブックス私鉄ローカル線"を参照すればわかります)。一番下の左側が C152の塗り分けです。なおC151は基本的にM15形と同様です。 左が一時的に変則な塗装塗り分けで、右がその後屋根部分だけ塗り変わった。                 平成7年3月31日"さよなら電車"運転の花電車でM151,M153、そしてC152とともに、最後の電車として花を添えて帰らぬ旅へ発ちました。  その後、C151はM151,M153と共に若柳駅構内で留置されていましたがM15形の項目にかいあったとおり、くりでんの撮影会にて、現役時代の姿を披露しました。
 C152の方は、M152,ED201と共にチャチャワールド石越へ移って、休憩所として第2の人生を送っています。
 C151は残念ながら平成21年7月13日に解体されました。
 
更新前のC141形。
元京阪神サハ81.
   
     

 M17形(M171・C171)
M17形はかつて元国鉄の17級電車11形でありました。西武鉄道へは昭和34年から40年の間にかけて、国鉄から移って整備されました。移った後の形式では371形でした。昭和51年12月に栗原電鉄へ移った371形は、クハ311形とクモハ371形の2連で、西武鉄道時代の車号はクモハ375号でした。
 栗原電鉄入線した後の形式では全長が前記通り17mであるためM17形と付けました。  塗装では入線当時、M15型と合わせた色(山吹色、朱色)に塗られていました。そのあと、M15型の山吹色部分が肌色へ変更したことに合わせて、塗り変わりました。
 しかし、乗客減少化で、朝夕ラッシュ時にしか動かなくなり、C15形と同じように昼寝すること多かったのですが、実はかなりの電力を消費するため、邪魔もの扱いのように休車へ追い込まれたという話がありました。こうして昭和62年5月12日づけで廃車となりましたが、一部の部品を撤去されたため哀れな姿になったまま若柳駅構内で長い間留置されていました。そのあと解体されたのが平成8年頃でした。     
 
休車中のC17+M17
 
1995年7月頃のM17形の姿

M18形(M181)
M181形は栗原電鉄の中で西武鉄道の血を引いていました。誕生したのは大正15年で、汽車会社で製造、武蔵野鉄道(後の西武鉄道)へ入線しました。西武鉄道を経て、栗原電鉄へやってきたのは昭和30年でしたが、木造車のままで現在の車体ではなかったようでした。
 形式はM161形と付けて使用開始しましたが、このM161形は、大正生まれで、木造製車体のため新しくできたM15形と比べると、見劣るうえ、各部の傷みも激しかったため、昭和34年8月にかつて育った地、西武鉄道へ里帰りし、西武所沢工場でC15と同じように、車体を鋼体化して現在の姿になったが、全長が18.6mなのでM181形へ改番されました。そのため、元福島交通5300形が入線するまでは、大形電車でした。
 M181形は、西武所沢工場で鋼体化されたため、前面マスクが西武湘南スタイルの西武501系によく似ている、西武色の血をしっかり引いていた電車でした。
 だが書類履歴をみれば武蔵野鉄道→西武鉄道モハ204→栗原電鉄M161形→鋼体化で西武所沢工場で受け、栗原電鉄M181形となるという歴史では語っています。
 その後、福島交通で電圧上圧にともない、廃車となった福島5300形の2両を譲り受け、栗原電鉄へやってきました。その元福島交通5300形は全長が18m級であるため、M181形の追番、M182,M183形として営業開始されたのより、M181は予備車となってしまいました。
   しかし、廃車にならずイベント車として転用し、旧塗装のまま、色々なイベントで活躍しましたが、イベント列車を強調したように、腰下部を紫、腰上部を水色とした、現在の色カラオケ列車として塗り変わりました。  くりはら田園鉄道転換後、M15やM182,M183とともに廃車となったが、解体されず若柳駅構内で今にも留置されています。
 ぼくはせめて、西武所沢工場は武蔵丘工場新設伴いで移転して閉鎖されているので、西武所沢工場製の思い出として、西武鉄道が引き取ることができないかなと思いました。
 しかし、その叶いはかなわず、平成21年7月13日に、M181形は解体されました。   
 
M181形の更新前のM161形
元西武鉄道モハ204.
     

M18形(M182・M183)
M182、M183形は、福島交通が昭和46年、日本車輌に発注、2両製造されて福島交通へ入線し、形式は、モハ5300形、モハ5318(→栗原電鉄M182形)、モハ5319(→栗原電鉄M183形)として営業開始されました。
 前方に幅広の幌枠を持つ貫通式のため、福島交通では常時2両編成で使用されていました。しかし福島交通にも近代化の波が押し寄せ、平成3年6月24日付け、東急電鉄ステレンス製の7000形を譲り受け、同時に電圧を1500vへ昇圧したため、旧型福島交通5300形を同年の8月24日付で栗原電鉄へ移籍しました。それ以外の旧型車両は全て解体になってしまいましたが、一両のみ物置化して余生を送っています。
 福島交通5300形は、甲種回送で栗原電鉄へ運ばれ、JR線と栗原電鉄への連絡線は当時、貨物輸送廃止により、石越駅構内の中継線は無くなっていましたが、一時復活させて、栗原電鉄内へ取り入れました。
 栗原電鉄に入線した福島交通5300形は、全長が18.7mであるため先輩であるM181形の追番としてM182、M183形と付けらたので、こうしてM18形電車増備という形となりました。塗装の方では、福島交通時代のままで、形式表示を変更しただけで他の改造は加えられませんでした。
 同年11月から営業開始しましたが、試乗しにきた沿線の住民たちには、M15形より車内がきれいで揺れが少ないと、好評でした。  しかしM182、M183形とも両運転したかったが、変電所の容量の関係により両運転は不可能で、M15形1両とM18形1両で運転する手段をとっていました。
 なおM182、M183形にヘッドマークを付けて運転するようになりました。掲示されているヘッドマークは、M182形が栗駒山を描いた"くりこま"、M183形は白鳥の集まるという有名な伊豆沼の白鳥を描いた"はくちょう"です。
 M15形とC15形は細倉マインパークのマスコットを描いた"細倉マインパーク"のヘッドマークを装備していました。
 くりはら田園鉄道へ転換後M151、M153、M181形とともに廃車となりましたが若柳駅構内で留置されいましたが、平成21年7月に解体されました。 
     

 

KD95形(KD951・KD952・KD953)
平成7年4月1日から、電化は燃化へと変わることになり、また栗原電鉄からくりはら田園鉄道へ社名変更することにあわせて、平成6年12月頃KD95形気動車を新制入線しました。
 富士重工で全長16.5mの軽快タイプ気動車、室内はセミクロス仕様で、カンテラ風の前照灯を取り付けているほか、床や腰掛けなどに木材を使用するなど全体がレトロ調に仕上げられています。  KD951形が"白鳥"、KD952形に"野菊"、KD953形に"栗駒山と馬"のエンブレムが取り付けられているので、栗原電鉄のヘッドマークであるシンボルマークの絵柄を引き継いで掲示されています。
 平成7年12月に富士重工から甲種回送で石越へ、そしてM18増備(福島交通車両)と同じように、やってきたKD95は、すぐ栗原電鉄内に入線しないで、連絡線上でDB101と連結したまま留置し、栗原電鉄での終電が石越駅を発った後、栗原電鉄内の石越駅へ入線してきました。
 入線したKD95はいよいよ平成7年2月からハンドル訓練や乗務訓練を開始されました。ほんとうにくりはら田園鉄道への転換という足音が聞こえてくるようでした。試運転開始したKD95は、置き換えられるM15形とM18形の顔合わせシーンが展開されました。
 こうして営業開始の時を迎えた平成7年4月1日付けで栗原電鉄からくりはら田園鉄道へ社名変更して、M15,M18形からKD95形へ入れ替わり、新しい人生がスタートしました。  晴れ姿のKD95形が、何かもすっきりしたように、新しい地となるくりはら田園鉄道沿線を走っていきました。
 平成18年3月に廃線を1年残した期間に、くりでんをもりあげるためミヤギテレビとNPOくりでん応援クラブ合同企画で“OH!ハンデス号”を実行、KD952号車が受け持ち、1年間PR及び盛り上げなど行われた。
 ついに平成19年3月31日限り、19時ごろ石越駅発細倉マインパーク前駅行き(※18時17分発の予定だったが廃止便乗で多くの人たちが見に来た影響で対処できず、1時間遅れとなった)、20時過ぎ頃に、細倉マインパーク前駅発石越駅行きにて最終列車となり、これにもって営業終了した。
 廃車後保存対象となって、今にもまだ若柳駅構内にて保管されている。 
     
     

KD10形(KD11・KD12)
KD10形は元名鉄気動車であって、1984年に製造された軽快気動車、で下回りがバスの部分を流用していました。
 名鉄時代であった頃は、閉散時間帯の広見線、三河線などで運転されていましたが、下回りはバスを流用しているので下回りを中心した部分が老朽化してしまい、より新しい気動車キハ30形を導入開始することになったため、キハ11?16形は廃車になりました。そのうち、キハ15、キハ16が、くりはら田園鉄道へ引き取られることになったのです。
 搬入後、すぐに本線で試運転を行われましたが、すぐには営業開始されず、整備など室内を中心とした改造が行われましたが、外見も変わらず、改造点はなく名鉄時代と変わらない雰囲気が漂っています。
 KD10形の営業開始は臨時運転の"快速さわべ"でした。そのときには、ヘッドマークがくりでんマークではなく、"快速さわべ"というヘッドマークをあげて走ったという事が珍しく、その姿が忘れなかった。
 その後鶯沢高校の通学する学生のために、開校間の平日朝夕のみに2連で運転することになりました。
 運転筋では、基本的に学校のある日中の平日の朝夕のみ運転されますが、鶯沢高校の休校間は運転されず、KD95に代わって運転されます。塗装の色は変更されずに名鉄時代のままであるため、名鉄時代の雰囲気が漂っています。
   現在は、KD95の代行運転やイベント運転のみになりました。
 平成19年3月29、30日の午前中の1往復のみ限り特別運行し、それにもってKD95形より一足早く運行終了した。 
 

DB10形
(DB101・DB102)

DB10は、日本各地の専用線で貨物などの入れ替えを行う小さな機関車ですが、もっとも要の機関車と同じかわいいロコ機関車で、形は小型凸形機でした。
 栗原電鉄に入線した理由は、国鉄との中継や入れ替えの時に、国鉄(現JR)の東北本線は交流2万vですが、栗原電鉄の電流は750vであるため、石越駅構内でショートしないよう非電化で行わなければならないため、中継ヤードで入れ替え用のディーゼル機関車が必要になり、昭和40年と昭和41年の2回に分けて、協三工業で各1両ずつ合計2両製造されました。
 色は赤い色に黄色のスカートで、塗装がよく似合っていました。石越駅と細倉鉱山駅各1両ずつ配置され、貨物の入れ替えで活躍しました。  しかし細倉鉱山閉山で貨物輸送が廃止されたため、失業となったDB102は一足早く廃車となり、解体されてしまいました。
 生き残ったDB101は、若柳駅構内に配置され、時折電車などを入れ替えしていました。くりはら田園鉄道へ転換した後も、若柳駅構内で廃車された電車を入れ替えしたり、保守機と共にイベントによる運転を実施したり、鉄道ファン達を喜ばせました。
 2000年頃に、DB101がきれいに塗り直しが行われました。それに合わせて旧栗原電鉄の社マークは塗りつぶされ、くりはら田園鉄道のマークへと塗り変わりました。最後まで残ってた栗原電鉄の社紋は残念ながら消えました。
 2005年3月25日付けで貨物列車ととも除籍されてしまいました。しかし、除籍後、再び貨物列車運転があり、そのときには営業路線閉鎖と言う形をとり、運転されました。 
   

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